動く岸、止まる岸

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1966年生まれの私にとって、日本が直接関わった戦争というのは遠い過去の話である。


例えば息子と同じ10歳になった年は1976年。戦争が終結してから31年後のことである。10歳の子どもにとって、自分の人生の3倍以上である、31年も前なんてのは大昔の話でしかない。「戦争を知らない子どもたち」なんていう言葉を聞くと、「は?なんのこと?」という違和感を覚えた。
当時私はすでに野球を知り、タイガースファンだった。田淵が大好きで、新加入のラインバックとブリーデンが気になって、若虎掛布に胸ときめいていた。昨日のことのようにといっては大げさだが、今でもよく覚えている。
時は現在。ラインバック来日から、経った年数は32年。あっという間のことである。
今から思うと、私が10歳だった時は、まだ戦争が終わって、「たった31年」しか経っていなかったのだと思う。
私が生まれる9年前の1957年に広島市民球場は開場した。それまでのグラウンドにはナイター設備がなく、地元財界の支援を受けて出来上がった新しい市民球場に、野球好きの市民は大喜びだったという。
広島カープが生まれたのはその7年前、1950年。カープは核の焼け野原と化した広島復興のシンボルだった。人々はプロ野球に熱狂したという。
原爆が投下されたのは1945年8月6日。その5年前のことだ。核の烈火が一瞬にして山陽の都を焼けただれた地獄に変える。ありとあらゆるもの、やわらかいもの、固いもの、生けるもの、すべてを傷つけ、蝕み、焼き、溶かし、消した。
その瓦礫の原っぱから、広島は立ち直った。わずか5年で、プロ野球球団を持てるまでに。
広島市民球場と広島カープは、広島が苦難に打ち克って復興していくそのダイナミズムの象徴。川を挟んで向こう岸に佇む原爆ドームは、変わりゆく街、変わりゆく人の心に止めておくべき記憶の象徴。
残暑厳しい日を受けて、今なお時を止め続ける原爆ドームに、市民球場のスタンドからドーっという大歓声が降り注ぐ。でも原爆ドームは何も言わず、ただただ止まっている時を守っている。

カープに思いを込める市民の熱さは変わっていない。この二日で強く感じたことだ。
老朽化と顧客サービス向上は対策も必要だが、この場所から市民球場がなくなってしまうのはとても残念に思った。
土日、駆け足で市民球場、宮島、平和記念公園、原爆ドーム、そして市内を見て回った。もうすぐ10歳になる息子にも思いで多い旅になったと思う。
いやさすがに忙しくて疲れてビデオを見ていないのよ。もちろん経過はずっと気にしていたけどね。ま、今日はこんなんでひとつ…。
いろいろお気遣いいただいたwanさん、ありがとう!旅の途中で出会った虎ファンのみなさん、ありがとう!
さあさ、引き続き窮地の虎を元気づけて行こうね!

コメント

  1. ジジィ より:

    広島市民球場には、そんな歴史があったのですね。
    で、最近眠れない夜が続いて困っているので、何か安心できる一言を頂けませんか??
    何か、一ヶ月程前にネガティブコメントを笑い飛ばしていたのが、シャレにならん状況ですよ…

  2. いわほー より:

    原爆ドームや平和記念資料館を巡ると、人が背負う業の醜さに愕然とします。そして今ある平和を尊さを前にすれば、タイガースのふがいなさすら瑣末な事柄に思えます。
    そう、タイガースが不調な時は平和記念資料館とプラネタリウムに限ります。きっと、なんて自分はちっぽけな生き物なんだ、と思い知らされます。何ゆえ、こんなちっぽけなことに一喜一憂しなければいけないのか?
    さあ自分を見失いかけているタイガースファンの皆さん、プラネタリウムに行きましょう。

  3. やっぱりトラ! より:

    ええ親父ぶり…なによりですわ。
    さてトホホも3カード連続の負け越しで明日からは気分一新の甲子園で対ヤクルト。
    大砲を持ち合わせていない両チームの戦いは競り合い間違いなし。
    広島で見せた守備の破綻は今回はさらに命取り。
    どーせ打てへんねんから守備から入ってライト・平野、セカンド・藤本なんてこの際エエと思うが…。

  4. 一虎ファン より:

    戦争や平和に比べると、いわほーさんがおっしゃるように、野球はちっぽけです。
    でも、だからこそ、野球に夢中になれることを喜ばなければいけないのでしょう。平和のありがたさを忘れることなく。
    市民球場から原爆ドームが見えるというのは意味が深いですね。
    写真を見て、しんとした気持ちになりました。

  5. 西田辺 より:

    もう20年も前になりますが、広島出身の大学の友人宅に遊びに行った時、
    彼のお父さんとお酒を酌み交わしながら、カープ創生期から樽募金、広島初優勝時の
    面白い話を教えて頂いた思い出があります。
    この球団には他とは一線を画するファンとの関係がありますね。
    その関係が市民球団の誇りとして、脈々と次の世代へと受け継がれている。
    市民球場からの移転は寂しいですが、地元ファンの熱意と
    誇りは失われる事なく続いて行くでしょうね。

  6. wr29 より:

    全く同じ行程(球場→平和公園→宮島)で、土日観戦、月曜観光でただいま東京に戻ってまいりました。
    行きの機内からホテルのレストラン、球場周り(は当然だとしても)、宮島さん境内、お好み焼き屋から原爆資料館内までとにかくありとあらゆるところで虎ユニの集団を目にし「他に着るものないんかい!」とツッコミながらの広島遠征でしたが(笑)、市民球場があの場所にあったからこそ、野球観戦を主目的として広島に来た人たちにも「ちょっとまだ時間あるな」と原爆資料館に立ち寄って、僅かでも戦争と平和について思いを馳せる時間を持たらしてくれていたのだろうなと思いました。
    市民球場の跡地はどう使われるのか、興味深いですね。

  7. yu より:

    toraoさん
    お目にかかれてうれしかったです。
    お子さんと平和記念公園行かれたのですね。素敵なお父さんですね。
    私も広島市民球場と原爆ドームは心の中ではつながっています。夏の暑い日に行くと夾竹桃が美しく「ちょうど原爆投下の日もこんな風に咲き乱れていたのだろう」と思い、秋に行くと夕日を背に原爆ドームはなんだかホントに恐ろしく見えます。
    そしていつも、こうやって野球を楽しめる平和に感謝します。
    さあ明日からはまた必死の応援ですね。世話の焼ける子やから?(苦笑)